熱が出た! / 思った事

「熱が出た!」

 

先週、有給消化で4連休が発生したので、友達に会いに帯広へ小旅行へ行ってきた。

町の観光というのを今まで特にしたことがなく、いつもはそもそもが温泉街だったり、行き帰りの観光名所を巡っていたりしたのだけれど、友達が案内してくれるというので今回は町のグルメを食べ歩いたり、資料館やら道の駅などの名所やらを巡って過ごした。その旅行感が楽しかったというのもあるのだけれど、一旦それは置いといて、帰った後めちゃめちゃ熱がでた話がしたい。

 

家に帰ったあと妙な倦怠感を感じた。長距離運転で疲れているんだろうと思ってすぐに寝たのだが、翌朝起きてみると37.2℃の微熱が出ていた。熱が出るのはコロナワクチンの副作用が最後だったと記憶しているので、ゆうに1年半ぶりである。たかだか平熱より0.8℃くらい高いだけでこうも体が重たいのかといつも思う。

その日は4連休の最終日で仕事ではなかったのだが、こういった時世柄なので念のため発熱外来へ行った。病院へ行くのなんていつぶりだろうか。ワクチンを打ったのは集団接種会場だったので病院ではない。もう記憶にないくらい前のことだ。

インフルエンザかどうかを調べる方法が未だに鼻腔拭いなのはやはりこれが最善手だからなのだろうか。子供の頃長い綿棒を鼻奥につっこむ検査法がすごい苦手で、もっと痛みが伴わない方法がいずれできるんだろうなと思っていたのだが、それはまだ先の話のようだ。今回も鼻奥に長い綿棒をつっこまれ、あほの顔をしながら粘膜を削り取られた。

結果としてはなんでもなかった。「検査が早いとインフルエンザが検出されないこともあるから用心してね」といわれて薬を出されて診察は終わった。まあ正味、自覚症状と言えば微熱でしかないしそんなもんか、やはり運転疲れで体調が優れないだけなんだろうな、なんて思いながらその日は暖かくしてすぐに寝た。

 

翌朝起きてみれば38.8℃だった。とんでもない高熱だ。

人間の体は38℃を超えるとまともに動かないというのを痛感した。食事はおろかスマホを持ち上げる事すら億劫でなにもできやしない。

会社へ休みの連絡を入れる。学校や会社を休めるとなったとたん少し身が軽くなる感覚というのがなんとなく共通認識としてあると思っているのであるていで話すが、それすら感じないくらい疲弊していた。

少しでも胃に刺激があると一気に具合が悪くなってしまうので、水とinゼリーだけを飲んで過ごす。inゼリーがこの世に無かったら僕は栄養失調になってしまっていたかもしれない。この場を借りて礼を言う。ところで「ウィダー」はどこ行った?

 

熱自体はまる二日薬漬けにして寝かしておけば治ったのだが、今はその後遺症?に悩まされている。

栄養補給をinゼリーのみで完結させていたのが祟ったのかあるいは二日も日中夜横になっていたせいで軽い食道炎になったのか、胃が痛く、重たい固形物を受け付けなくなってしまった。スープ・味噌汁など液体は大丈夫。米はきつい。野菜は大丈夫。肉や揚げ物は到底無理。パンは味が薄ければ大丈夫。濃い味のジュースもダメ。どうにも面倒な偏食家のようになってしまった。一応治ってから5日ほど経つのだが未だにダメなのだ。

あとは咳と鼻水が無限に出る。あまりにも鼻水が止まらないものだからもう花粉が飛んでるのかと思ったが、北海道ではまだ観測されていないようだ。もういい加減しんどいので健康になりたい。助けてくれ~。

 

「高熱の時の夢みてえだ」はすでに擦られまくって手垢塗れの比喩だが、高熱の時は夢を見るのだ。僕が見たのは「赤い棒・青い棒・黄色い棒があって、それぞれ円柱・三角柱・星型柱(?)になっているのだが、赤い円柱を2本・青い三角柱を2本・黄色い星型柱を2本集めて扉にかざさなければならないのだが、どうしても一本足りずに途方に暮れてたら、実はバグで一本表示されないと明かされる」という終始徒労で不憫な夢だった。思い返すと悲しすぎる。熱で辛い頭を引き継ぎながらやる作業じゃない。

 

早く健康になりたい……もうそろそろ健康だったころの自分を忘れてしまいそうだ。

 

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「思った事」

 

ところで今回病床にふせってみて、ひとつ気付きがあった。周知の事実だったら恥ずかしいのだが確認する術がないので一旦書くが、「無条件で信用してる事・信用しなきゃやってらんない事」ってあるよなあという気付きだ。

現代は科学の発展が目覚ましく、中世に比べれば神秘的で説明のつかないことが無くなってきている。魔女裁判なんてものは廃れ、誰もが地動説を正しいと知っており、医学薬学の進歩で未だかつてない長寿を叶えている。

事象に対して説明がついたり、物事に根拠があるのが見つかったから神秘が無くなっていったわけだ。

ところで、歴史の文脈ではよく宗教が引き合いに出され、今じゃ考えられない間違った療法を『神の御業』の一点張りで処置していたんだと言われては「これだから宗教は」といった定型句を吐かれるのだが、この部分に違和感を感じたのだ。

 

僕は果たして、本当に神秘から解放されているのだろうか。先んじて断っておくが、僕は別に妙な新興宗教にはまったり陰謀論を植え付けられたりはしていない。

 

というのも、そう思ったきっかけと言うのがこの熱で処方された「薬」といものだ。病院を受診して診断を出してもらい処方された「薬」だ。咳止めの薬、熱を下げる薬、鼻水を止める薬、炎症を止める薬など様々な薬を処方された。

当然だがこれらの薬はちゃんと効果があると科学で実証されていて、似非医学などではないれっきとした医薬品である事に間違いはない。間違いは無いが、「僕」はそれを知らない。なにが入っているのか、なにが作用して熱が下がっているのか・咳が止まっているのかを知らない。

 

こう考えたときに

医者「この薬はカロナール錠といって、飲むと熱が下がるよ」

神父「この薬はカロ=ナールの儀式を経た聖なる薬で、飲むとたちまち熱が下がるよ」

の内に、出されている薬が一緒ならば、「僕の中での認識」の差に大差がないように感じたのだ。※後者の方が幾分か胡散臭いのは認めるが今言いたいのはそういう意味ではない。

 

信奉する先が『神様』から『科学』に変わっただけで、本質的には『科学』を知らないまま盲信しているのではないかと思ったのだ。先人がすべての神秘を暴いたつもりでいたのがいつの間にかその科学を「無条件で信頼」している。その事実が違和感の正体だったのだ。

 

もっと身近に考えてみてもいい。上記とは毛色が違うが「無条件に信頼」していることは山ほどある。例えばガス代は使った分だけが請求されるわけだが、本当に使った分が請求されてるかは確かめようがない。野菜一日これ一本に含まれる栄養素が本当に成分表のとおり一日分入っているのか知りようがない。空気清浄機が空気を奇麗にしているわけじゃなく鼻炎の薬を散布しているだけかもしれない。地球は太陽の周りを回っているわけじゃなく天体が地球の周りを回っているのかもしれない。地球は丸くないのかもしれない。

 

俺は陰謀論者の素養があるかもしれない。

衝動

月に一回くらいの頻度で全ての責任を放棄してしまいたい衝動にかられる。

 

ひとまとめに責任と言ったが、別に仕事をバックレてしまいたいだとか友人家族との関係を不義理にしたいだとかそういう破滅願望を言っているのではなく、もっともっと手前の軽度な事柄のことを言っている。

やったほうがいいけど別にやらなくても大損するわけじゃない(とはいえやったほうがいい)事ってのがいっぱいあって、きっと誰にでもあるものなのだろうけども、それをぶん投げて堕落したいと思ってしまう。

 

 

趣味の一つとしてゴルフをやっている。練習することは苦ではないし、親しい間柄の人たちとコースを回ったり、試行錯誤してフォームを考えたりしながら体を動かすのは好きだ。

しかし、時折誘われるゴルフコンペに参加するのは気が重い。自分よりも遥かに腕がよく、ましてや顔も名前も知らないような人と組んで、及第点とも言いにくいような自分のプレーを見られながら半日近くかけて18ホール回るのは、人見知りで人付き合いが苦手な面も相まって、とてもじゃないが気楽な行事とは言い難い。

つまるところ、コンペという枠組みの中でみたときの自分の技術が、他人と比べて極めて低いがゆえに気が重くなってしまうのであって、頑張って練習して人並のスコアが出せれば、さほど苦にはならないはずだ。(コミュニケーションが苦手なのは呑み会でも一緒なので技術と人付き合いの二重苦から一つ軽減されるだけでだいぶ違う)

「コンペについてくために練習をしなくてはならない」は、趣味か?責任か?と考えると、両方でありながらも確実に責任の比重が重たいように感じないだろうか。

そう考えたとたんにもうゴルフなんてやめてしまおうかと思ってしまう。なぜならば「やったほうがいいけど別にやらなくても大損するわけじゃない(とはいえやったほうがいい)事」だからだ。

 

 

趣味といえばもう一つ、ピアノをやっている。楽器が弾けることに対して強い憧れがあったので2年前から始めたのだ。最近は、人に聞かせられる代物ではないにしろ、弾ける曲も増えてきて、牛歩ではあるが憧れに近づけている実感があり充実している。

過去にギターを触れた時の経験から自分は独学でなにかを成し遂げられる人間ではないと分かっていたので、音楽教室で月3回のレッスンを受けている。毎回ほどほどな課題を課されるのでそれをクリアするためにしょっちゅうピアノに向かうことになるので自然と上手くなる。趣味としてのピアノを学ぶコースの為、失敗したところで厳しく罰されるわけではなく、しかし達成できればそれは自信として糧になるという仕組みは独学のそれとはまったく別物で、人から習うという策は効果てきめんであったといえる。

しかし、月一回のかの衝動は、自らがすすんで課した責任にすら牙をむく。なぜならば「やったほうがいいけど別にやらなくても大損するわけじゃない(とはいえやったほうがいい)事」だからだ。実利をもたらしてくださっているものにすらそう考えてしまうのが、この衝動の嫌なところなのだ。

 

 

詳しくは書かないけれど、ほかにもこういった、俯瞰でみれば微小な責任というのがいくつもあって、それを全部投げ出してしまいたいという衝動がふいにわいてしまうのだ。

定期的な衝動なので、なにかしらのバイオリズムのせいかもしれないし、気候とか気圧の変化のせいかもしれないし、ただの気分の浮き沈みなのかもしれないが、一度こうなってしまうとたてなおすのに苦労するので、なにか原因があるならば知っておきたい。

 

みんなこうなのだろうか。もしそうなら、どう乗り越えてるのか、どう避けてるのか、知っているなら教えてほしい。

もう怒ってないから帰ってこいよ

一週間というのは過ぎてしまえばあっという間に感じる割に、物事を忘れさせるには十分すぎるくらいの時間だなと感じた。

というのも、多忙が起因してたった1,2週間書かなかっただけですっかり書くことへの情熱が冷めてしまい、いつのまにやら半年もの時間が過ぎてしまっていたからだ。そもそも何か目標があって始めたことではないので、飽きてやらなくなることも自然なことと思うのだが、そのくせ、誰に強制されているわけでもないのに、なにか書いた方がいいのではという謎の焦燥にかられるのだから、つくづく余計なことをはじめてしまったとよく思う。

相変わらずとりたてて書きたいことなんて無いのだけれど、2月は元々日数が少ないのに、有給消化で休みが多くて時間がいっぱいあるので、少しでもこの誰も得しない焦燥を抑えられればいいと思ってパソコンを立ち上げた次第だ。

半年ぶりに開いたブログでは、「この広告は90日以上更新されていないブログに表示されています」という広告で埋まっている。自動ログインの期限が切れていたのであれでもないこれでもないと様々なID・パスワードを試し、ようやくアカウントを開くことができたものの、いざ白紙の編集画面を前にしては序文が全く思いつかず、ここまで書くのに早1時間が経過しようとしている。

この半年、いろいろなことがあって幾分か人間的に成長しただろうと思っていたが、文章を書く技術は文章を書くことでしか養われないのだなと痛感した。

 

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kindleには「広告付き」という普通のものよりも少し安い機種がある。

広告付きといっても、読書の合間に飛ばせない15秒のCMが入ったりオーバーレイ広告がずっと下に表示されるというものではなく、起動時にこんな本もありますけどどうです?といった些細な広告が入るだけだったので、僕のkindleは広告付きの安い方を選んだ。

買う前は、起動時だけとはいえ、余計な広告のせいで読む気力が損なわれるのかなと危惧していたのだが、実際は、広告きっかけで「ほえーそんな面白そうな本もあるのか」と読んだ本もあったのでさほど邪魔に感じなかった。

ライブラリの本を参照しているのか、興味が近い本をピックアップしてくれているようで、いつしかkindleに対して「趣味の合う読書家の先輩」的な概念が僕の中で確立されつつあった。

 

先日、表紙とタイトルと帯につられて、東大思考という本を読んだ。

東大に行くような人は普段何を考えて、どのようにしてその膨大な知識を蓄えたのかという内容で、こういうふうに考えると物を覚えやすいよだとか、こう捉えるとシンプルになって飲み込みやすいよねだとかのメソッドが書いてある本だった。

なるほどなーそういう考え方もあるのかーと楽しく読んだのだが、それをみたkindleが「こいつ東大に行きてえのかな」と思ったようで、最近は「東大に受かるためには〇〇をやれ!」だの「ビジネスに通じる東大受験」だのの広告を吐き出すようになってしまった。

「趣味の合う読書家の先輩」が「おせっかいで学力主義の鬱陶しい友達の友達」に変貌した瞬間である。小説を読もうかなとkindleを起動するたびに僕を大学へ行かせようとしてくるのだ。

ライブラリにはその一冊しか学問系統の本はないし、その後に追加した本は全然大学に関係ないのに、いまだ執拗に大学が~といった本ばかり薦めてくるし、挙句「学歴コンプがどうのこうの」などという本を持ち出してくるのだからまったく見上げた根性である。なんて挑戦的なやつだ。完全に俺のことナメくさってやがる。

いいさ、そっちがその気なら俺は俺の読みたい本しか読まないもんね。腹いせに文庫本読むことだってできるんだぜ。あーあ、紙の本読んで「やっぱ電子より紙だよな~」とか言い出しても知らないからね。「kindle売るときってブックオフかな?ハードオフかな?」ってなっても知らないからね。

 

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普通の本を読み続ければ、いつか元の先輩に戻ってくれると信じて、今はこいつのことを無視して過ごしてる。一旦距離をおいてみよう。冷静じゃない俺達には少し時間が必要なのかもしれない。

「偶発的ポテチ」概念の発見

最近は随分と忙しい。

 

というのも、旅行関係の仕事に従事しているのだが、ここ数週間はいろいろと緩和された事もあって忙しくさせてもらってるといった具合なのだ。

 

懐具合としてはうれしい反面、感染者数も増えてきているので、ここからまた落ち込んでいくのかもなあと思うと気が滅入る。

 

 

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「偶発的ポテチ」の旨さについて話したい。

 

ポテトチップス、しょっちゅうは食べないけれど、たまにぐーっと食べたい欲がわいてきてコンビニで買って帰ったりする。

でも、そういうときのポテチって旨いんだけれども、結局「まあこんなもんだよな」という気持ちに落ちつく。

 

なんとなくそんな感じ、わかります?

一袋食べきっちゃったらポテチ欲が120%以上満たされて、もうしばらくいいかなみたいな。

 

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先日、事務所に「ご自由にどうぞ」風のポテチが置いてあった。

小腹も空いてるし、折角だからと思って数枚頂戴したのだが、この数枚があまりにもうますぎた。ポテチとはこんなにもうまかったものかと、想像していた期待を遥かに超えていて衝撃を感じた。

 

小腹が空いていたという万物をうまくするスパイスがかかっていたとはいえ、その衝撃は凄まじく、控えめな性格な僕が追加をねだる程だった。ちなむとこの行為は僕の行動原理からすればとてつもなく稀有な行為だと付け加えておく。

 

それからというもの、この衝撃にあてられた僕はこの意識外から突如現れるポテチを「偶発的ポテチ」と名付け、「小腹が空いている」に次ぐ、認識によって加えられる心象スパイスとしての研究を続けている。

 

ところが、この研究が早くも窮地に立たされている。
サンプルがあまりにも乏しいのである。

 

意識外から突如現れるポテチを自分で用意することは不可能である。他人に依頼して再現する方法も考えたが、それを偶発と呼ぶには幾分か自分を騙さなければならない。
唯一、自分で買った後に頭を強く打つという方法があるが、これは以前学会から「極めて危険」として厳重注意を受けている為、最終手段としてまだ控えている。

 

誰か俺にポテチをくれ。研究のために。可能な限り偶然を装って。

 

 

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この前、寝る前になんとなしにYoutubeのショート動画を眺めていたら、いつの間にか2時間半経っていてまいった。

 

忙しくってあんまり趣味の時間が取れなそうだな~なんて考えていた後の出来事だったので、かなり深く落ち込んだ。

 

あのコンテンツは危険だ。2時間半も見てたのに2割も覚えてない。
気を付けたまえよ、貴公もいずれ吞まれるぞ。

 

 

 

結局のとこ習うのがいっちゃん楽で効率的

ヨルシカの新曲がめちゃめちゃいいよ~

 

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諦観というか「どうでもいい~」みたいな雰囲気がありつつも、ポジティブな言葉もちりばめられてて好き。

歌詞全体通して「強制」がなくて、ずっと提案ベースなのが心に優しい。

リズミカルで軽快でクリーンな明るい曲調が心地いい。

 

同じような歌詞だし三番は飛ばしていいよ 」

 

この歌詞好きすぎる。衝撃。

 

 

 

 

 

 

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月に3回ピアノのレッスンを受けている。

 

かねてより何某か楽器が弾けるようになりたいなあと思っていたこともあり、去年の春頃から受講していて早一年半になる。

 

受講は概ね30分で、次の生徒が居ない日には少し延長して40分ほどお世話になることもある。

 

意外に短いと思うかもしれないが、人から教わるというのは随分と効率が良いもので、受講時間のイメージよりも遥かに学べることが多く、それに加えて「定期的に進捗をみてもらう相手」がいるのはモチベーションの維持にも大いに役立つ。

 

初めたての頃は練習というものが習慣になっていなかったこともあり、ロクな練習もせず教室に向かっては、はたしてこんな状況で受講する意味があるのだろうかと自分で疑ってしまうような状況だったものだが、懇切丁寧に教えてくださったこともあって、なんとか今まで続けることができている。

おかげさまである程度、練習が習慣として根付いてきていて、テキストの課題はもちろんの事、楽曲についても2曲(Summerと簡単な楽譜のトルコ行進曲)弾ききることができるようになった。

 

独学でギターを練習していた時は、飽き性なことも相まって一曲まるまる弾ききれるようになるまで続かなかったのに比べると大きく進歩している感じる。

 

つまるところ何が言いたいのかというと、今あなたがやりたいことがあって、それが教われるようなものなら教わってしまった方が結果良い意味で楽ですよってこと。

 

褒められるって単純だけどとてつもなくモチベーションに影響あるからね。

 

 

 

 

 

 

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仕事でストレスを感じる事が増えたような気がする。

 

※先に断っておくが、今の職場に辞めたい程の不満はないし、この業界にいるのも早7,8年になり、ある程度プライド持って業務にあたっているので、職業について言及されるとムキになるぞ。

 

接客業/サービス業に分類される職に就いており、新卒で採用されてからというもの「お客様を最優先に行動する」というのは口酸っぱく言われ続けていて、業務にあたる心持としての芯を担っている。

 

その芯に対する向き合い方の個人差について、どうにもこうにもうまい解決策が思い当たらないのだ。

 

端的に言えば、ストレスを感じる根っこの部分というか原因みたいなのには気付いているのだが、それを正そうとすると他人の価値観に干渉しなければならず、どうにももどかしく感じながらひそかにいらいらを感じているのが現状である。

 

俺個人が思う「常識」が誰にとってもそうではないというのを久しぶりに痛感している。率直に言ってしまうのも一つの手段として思いついているのだが、それを当人にどういう表現で言えば良いかが思いつかず攻めあぐねているわけだ。

 

 

なんて言ったところで仕事の話である以上ある程度書ける内容に制限がかかってしまうので言っても仕方がないのだが…

感情の整理も含めて一旦吐き出させていただきました。

 

どの職場でもこういった悩みは絶えないだろうと思って、心を落ち着けていきたいね。

 

 

 

 

 

 

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ずっと情熱というものに憧れていました。

 

情熱を注ぐ、情熱を燃やすといった事柄に無縁な生活を続けてきたのでどこか空虚な焦燥感に駆られていたのですが、俺にも情熱の芽生えというか熱中できるなにかを感じられて、ここ最近感情が前向きになったような気がします。

 

仕事しかり趣味しかりですが、ある程度の感情が乗らなくては没頭することができないのだろうと、ようやく気付き始めてきたところであります。

 

どうかこの熱が冷めない事を祈るばかりです。精進します。

俺が持つべきはデビッドカードだったかもしれねえ

所用でネット銀行を開設しました。

 

そうしたら当然キャッシュカードが届くわけなんですが、今回開設したやつはキャッシュカードの機能と一緒に、デビッドカードなる機能が付いていた。

 

ざっくりとしか知らなかったんでデビッドカードって「デビッドカードが使える店」じゃないと使えないと思ってたのですが、実際はそのカードの銘柄(VISAとかマスターとかJCBとか)が使える店ならデビッドも使えるらしい。

 

クレジットカードと違って引き落とし日が設定されてるわけじゃなくて使うたびに口座から引き落とされるシステムになってて毎回残高に反映されるから、今月思ったより使ったなあってのが減りそうでいいなと思ってたんだけど上記の理由から結局見送ってた。

 

そうだと知ってたら俺クレジットカードなんて使わなかったのになー

(一時期めちゃめちゃギャンブルにはまってアホほど分割払いやってた)

(とはいえよく行ってたパチンコ屋にデビッドカードから入金できるやべえ機械があったからどっちみちかもしれん)

 

キャッシュレス決済が主流になってきた昨今、俺も何かしら始めようかなと思っていたので、もしかしたら使うかもしれません。

 

 

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昨年車を買い替えまして、ETCが付いてたので折角だからとカードも作って使ってるのですが、未だにETCゲート通るときビビるんですよね。

 

通常、高速道路に出入りするときは有人のゲートに停まって通行券貰ったりお金払ったりしてゲートを開けてもらうんだけど、ETCを使うと電波?でお金のやり取りして自動でゲートを開けてもらえるので、いちいち停まらなくてもスムーズに高速道路に入れる。

 

ただ、車に備え付けてあるETCの機械にカードを入れておかなかったり、カードの差し込みが甘かったり、ETCカードの期限が切れてたりするとゲートが開かないので停められてしまうらしく、これが怖い。

 

いちいち停まらずに高速道路に入れるという点がウケててみんな使っているのに、俺のせいでその流れを止めてしまうのではないだろうかと毎回通るたびにひやひやしてる。

 

あとETCゲートに入るときに「20km/hに減速してください!」って入口に書かれてるんだけど、これにも毎回ビビらされてる。

 

20km/h超えてたら早すぎてETCが反応できないんじゃないかな(多分そんなことは無い)と思っていつもかなり減速して入るんだけど、これも後続車の慣れてる人に「そんな減速しなくても通れるよ」みたいな感じで思われて、ETCのスムーズさを損なってるんじゃなかろうかと思ってしまう。

 

自意識過剰かもしれないけど気になるものは仕方ない。今のところは流れ停めたことないからなんとか使えてるけど一回でもやっちゃったらETC使えなくなっちゃうかも。

 

そうならないようにめちゃめちゃ二重三重にチェックしてるけど万が一があるから…

 

 

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最近めちゃめちゃ暑いですね。

夜になっても全然暑くて寝苦しい。

 

熱中症が多発してるみたいで俺も気をつけなきゃなと思っているのですが、怖いですね。

 

寝る前の水分補給が十分じゃないと寝てる間に熱中症になっちゃうこともあるらしくて、しかも熱中症って程度によっては後遺症残る場合もあるんだってね。

読んだ記事の例えで、「ゆで卵が生卵に戻らないのと一緒」とか書かれててめちゃめちゃビビってる。

 

怖いものばかりだ。気を付けよう。

広告とお祭りと青い思い出

Youtubeの広告をなんとなく最後まで見ちゃうことありますよね。

 

スマホゲームの広告とかめっちゃあるじゃないですか。

怪しい日本語でゲーム実況風にやってるやつとか、レベル1のチンピラが紆余曲折あって組長になるみたいなストーリーがあるようなやつとか、お前にできんのか?解けんのか?みたいな挑戦的なやつとか、あげだすときりないくらいいろいろあって、面白くてつい見ちゃいがち。

 

三国志知らないのに出生地は巴蜀がいいらしいってのも広告でみたぞ。山が多いから谷に柵を作れば敵から攻められにくいんだってよ。

 

あと、〇〇にお住まいの方限定!みたいな広告もあるね。

興味のあるなしにかかわらず知ってる風景が広告の背景にあるのが面白くてこれは途中までだけどみちゃう。

でも、漫画みたいなスタイルのヒゲ脱毛とかハゲ治療の広告はあんま好きじゃない。何が違うんだろうな。

 

今日みかけたこの広告もかなり面白いからみてほしい。

 

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知ってる題材ってだけでみちゃうのに曲も気持ちよくてめちゃ満足感あった。

ストⅡって結構広告で見かけるよね。やっぱ人気なんすね。

 

 

 

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かれこれ2年ぶりくらいに祭りに行ってきた。

 

感染対策なのか、単純に露店が減ったのかわかんないけど、いつもは道の両側に所狭しと並んでた出店が片側にしかなかった。

道が広くて歩きやすかったけど祭りっぽい賑わいみたいなのが薄まってて、なんとなくさみしさというか物足りなさみたいなのは感じた。

 

今日行ったのは近所のお祭りで、最後に行ったのは中学生の頃だったかなと思う。

当時の印象からすると全長が短くなったような気がしないでもないが、これは実際に短くなっているのか俺が大きくなったのか、ご時世柄なのかはわかんない。

 

なんて歩き回っているとかたぬきの露店に通りかかる。

昔は端と端、間にちょこちょこと何店もあったイメージだが、今は減ってしまって1店舗しかなかった。

かたぬきとかピンボールみたいな遊ぶタイプの露店が子供の頃は好きで、めちゃめちゃやってたのを思い出す。未だに実家の引き出しにピンボールの1回無料の木の札が保管されている。(あんまりにもピンボールから離れない俺を飽きないねえと見守る親に助け舟を出したのか、おっちゃんがまた来年来てねと握らせてくれたものであって、無断で持ち帰ったわけではない)

 

チューリップのかたぬきに成功してちゃんと3,000円に換金してもらえたもんだから「かたぬきのおっちゃんて全然換金してくんねーよな」みたいなあるあるが一時期全然わかんなかった。今思えばとってもいい店主と巡り会ってただけなんだろうなとも思うけど、お祭りが楽しくなるいい思い出だったなと感じる。

 

冷静に考えて店主も店主で3,000円換金するってかなり勇気いるよな。

今日見たとこだと3枚200円でやってたから15人捌いてやっと稼げる額だもんね。

 

なんて素敵なおっちゃんだったんだ。かっけえじゃん。

 

 

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かたぬき繋がりでもうひとつ思い出したが、こっちはうって変わって嫌な思い出だ。

 

人付き合いがあんまり得意じゃないのは今に始まったことではなくて、当時中学生だった俺も、決まった友達たちとしか上手く話せない性格だった。

 

そんななか、きっかけは忘れたが、クラスのイケイケグループとお祭りを巡るイベントに誘われたことがあった。ほんとになんで誘われたのか今考えても思い出せない。気のいいクラスメイト達だったのでからかいで誘われたわけではないはずなんだけどそうだったとしたら今更ながら戦慄する。そんな人たちじゃないと思うけどね。

 

当日、自分なりにしっかりとおしゃれな恰好を心掛けて向かったものの、同級生たちの格好というか存在感みたいなのが明らかに自分のそれとは別次元な印象を受けて、一発目から劣等感を刺激される。

 

制服姿しか見たことない同じクラスの女の子たちも、各々きらびやかな可愛らしい服だったり浴衣だったりなんか着ちゃったりしてて、学校とは違う雰囲気を纏う彼女らにいつも以上にどぎまぎしてしまう。

 

そんな精神状態でまともに会話なんてできるはずもなく、程なくしてイケイケグループを後から追うような立ち位置になってしまったのは無理もない。

さながら車付きの風船のように、彼らの後ろを無言で追従するしか手が無かったのだ。

 

追従している中でも劣等感は刺激され続ける。

男女分け隔てなく話せる彼にも、個性的ながらも整った格好で垢ぬけたおしゃれさを持つ彼女にも、気遣って声をかけてくれる委員長にも、ことごとく自尊心的なものを削られていく。

 

あまりにもいたたまれなくて、俺は、適当な言い訳をして途中で抜け出してしまう。

今現状の俺の持つスキルでは、悲しきかな、この輪についていくことはできない。

 

 

 

帰り道、かたぬきの露店を通りかかる。

折角お祭りに来たのだから、何かしら露店を楽しみたいと思ったのかもしれない。俺はかたぬきをすることにした。

物事に集中すれば、この胸の内のもやもやも誤魔化せるだろう。

 

だがしかし、そんな状態で100楽しめるはずもなく、ましてや集中力ももたず、どうにも無意味な時間潰しのようにしか感じられなかった。

失敗したかたぬきを食べる。なんだか普段より苦く感じたのは気のせいではないのだろう。

 

 

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なんていう苦い思い出も、楽しかった記憶も、お祭りは内包している。

大人になった今、雰囲気だけ楽しむのもおつと感じるようになったが、純粋な気持ちでかたぬきに没頭してみたいと思うのもまた嘘ではない。

 

次にお祭りに行くときはやってみようか。